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【第14回】
人民網でもエッセイを掲載させていただいた小林さゆりさん。ユーモアあふれるタッチで描かれたエピソードからは北京に住む人々の息づかいまでもが聞こえてきそう。昨年末にはエッセイ集「物語北京」を3カ国語で出版。ブログや雑誌などでの連載も好評の小林さんに、北京に来たきっかけや執筆にかける思いを聞いた。
学生の頃に北京大学に短期留学したのが最初です。今でこそ高層ビルの立ち並ぶ中国ですが、20年ほど前の当時は高い建物なんてほとんどありませんでした。特に北京大学のあたりは寒村のような風情で、ロバ車や馬車が走っているのもよく見られました。2月の寒い時期に行ったせいもあって、荒涼としたイメージでしたね。
そんなある日、知り合いの紹介で中国の家庭を初めて訪問したんです。その家族のみなさんが、「一緒にギョーザを包もう」と初対面なのに温かく迎え入れてくださって、それがとても嬉しかった。当時、「中国は竹のカーテンで覆われている」という言葉があったくらいで、中国がいったいどんな国なのか外からは全くわからない時代でした。でもその家族との交流をきっかけに、「中国というところは、国としてはよくわからないけれど、個人としてはわかりあえる部分があるのではないか」と思ったんです。田舎は長野なんですが、近所のおじさんやおばさんとノリが似ている(笑)。
それに北京では、初めてのはずなのにデジャ・ビュ(既視感)を覚えたんです。なぜか肌にぴったりくる感じがあった。その感覚も中国とお付き合いすることになるきっかけになりました。
あとでわかったことなんですが、私の故郷の長野県は、戦争当時に開拓団を日本で一番多く送り出した県なんですね。長野県というところは、山が多くて作物も育たないし、海もない貧しいところでした。農家の次男や三男の中には、夢を求めて大陸に行ったという人が多かったんです。そういう目で見てみると、私の近所のおじいさんやおばあさん、遠い親戚にも、戦争当時に大陸に行っていたという人がいる。こうなると、自分が来ていることも何かのご縁なんじゃないかと思えてきて、自分にできることは何か、日本と中国の関係がもっとよくなるように何をすべきかを考えるようになりました。
大学卒業後は、東京の日中友好協会というところで機関紙の編集をしていました。中国関係の仕事は念願だったんですが、中国に目を向けながら仕事をしているのに、「中国のことを本当には分かってはいないのではないか」という思いが少しずつ募っていたんです。取材や訪中団の添乗で30回くらい中国を訪れたんですが、住んだことがないから、「普通の人々の生活」がなかなか理解できない。「現地に入り込んでみなくては」と思っていました。
そんな時、知り合いの大学教授から「人民中国」(北京で発行されている日本人向け雑誌)で日本人を募集しているというお話をいただき、二つ返事でOKしました。「人民中国」では2000年から5年間、翻訳やリライト、企画などを担当しました。この時期は、留学させてもらっている思いでひたすらまじめに取り組みました。職場と自宅の往復で、ほとんど引きこもりに近かった(笑)。中国の文化や社会に積極的に触れるようになったのは、フリーになったここ数年のことですね。
北京市の南に残る明代の城壁 |
対象に近付く切り口は何でもいいと思うんです。身近にいる中国の人と話したらそれがストーリーになる。一番大事なのは、現地の人たちにぶつかってみること。いろんなことを話して、中国の老百姓(ラオバイシン、一般大衆)が何を思っているのかを発信しようと心がけています。日本の報道を見ていると、オリンピックや食の問題などのマクロな部分では伝えているけれど、一般の人たちはどう感じているのかというミクロな部分はまだ足りないようです。13億人のうちのひとりが何に喜び、何を悲しんでいるのか。そういった人間としての葛藤みたいなものを見つめたいんです。