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2003年2月15日 土曜日
午前11時半、買い物をしていたとき、携帯電話が鳴った。病院の護理部(看護部)の馮秀蘭主任からだった。それによると、病院に重症急性呼吸器症候群(SARS)の診療区を設置することになり、私に支援に回ってほしいということだった。そして、直ちに病院に戻り、非番の看護婦に連絡を取るように指示を受けた。
午後1時、私は病院に駆けつけた。このとき、ほかの看護婦も続々と病院に出勤してきた。午後3時にわれわれは12人の看護婦を5つのグループに分け、器材倉庫や薬品庫などから必要な器具や物資を大急ぎで準備した。午後9時を回って、私は疲れ果てて事務室に戻ったが、言葉を発する気にもならず、体はほこりまみれだった。このときになって、初めて食事を取ることを思い出した。
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2月16日 日曜日
午前11時、われわれはやっとSARS診療区で必要な物資をそろえ終えた。私は体重40〜50キロしかない女性たちが、わずか7時間余りという時間内に自分の体重より20倍も重い物資を5階まで搬入し、配置を終えたことをにわかに信じることができなかった。
食事を取るときになって、われわれが懸命に準備を進めていた間に、病院の各部門が大急ぎで必要な態勢を整えたことを知った。夕方には、診療区の水道や電気、酸素供給、ナースコールをはじめ、ベッドやスタッフと患者の衣服もすべて準備できた。また、病室の環境区分(感染区、半感染区、清潔区)やさまざまな業務規定、責任区分、消毒隔離制度などの規定が相次いで定められた。
午後10時前、スタッフが弁当を食べていたとき、同僚の看護婦、馮秀芳さんが自宅に電話をかけ、自分がSARS担当になったことを告げた。母や姉と弟はみな泣いていたという。しかし、馮さんは毅然と「この職業を選んだからには、後戻りはできない。私も泣いていないんだから、泣くのはやめて。心配はいらないから」と話しかけた。馮さんの母はただ毎日無事を連絡するようにとだけ言っていたという。この様子をみていた同僚は、自宅に連絡する気になれなかった。
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2月17日 月曜日
午前8時、われわれの診療区は「臨時診療区」と命名され、幹部らは診療スタッフの自己防護措置を徹底するよう重ねて強調した。
この仕事を始めた頃、われわれは厳粛に誓いを立てた。いつどこにあっても、老若男女、身分の高低を問わず、われわれの唯一の目的は患者に幸せをもたらすことだ。私はこれまで多くの救急現場に立ち会い、残業もいとわなかったが、いまさらながらこの誓いにこめられた深い意味を悟った。
午後3時すぎ、われわれは転院してきた最初の患者達を迎えた。病魔との闘いは正式に幕を開けた。
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2月18日 火曜日
朝、出勤するとまもなく伝染病院から昏睡状態の患者1人が運び込まれてきた。この患者は看護婦で、病床には医療スタッフの警告も聞き入れず、夫は毎日病床に食事や花などを届けてきたのだという。不幸なことに夫はほどなく感染し、妻に遺言を残す間もなくこの世を去った。この話を聞いて、現場の看護婦達は悲しみにくれた。そして、彼女は私たちの姉妹なのだから、全力で救わなければならないと心に誓った。
趙子文主任の指示により、患者は集中治療室に運ばれた。ファイバースコープを挿入し、人工呼吸器を取り付け、心電図を観察、そして採血・・・。趙主任は患者の気道に管を通すとき、顔と顔はわずかに20ミリしか離れていなかった。その後、看護婦たちがこの患者から痰(たん)を50ミリリットル吸いだし、失禁した下着も交換した。こうした応急措置の甲斐あって、患者の容態は徐々に安定してきた。
また、1人の看護婦の夫は妻が臨時診療区での勤務を命じられたことを知ると、退職を勧めた。しかし、この看護婦はそれを受け入れず、家族にうそを言ってまで、臨時診療区での勤務を続けた。そして、以前所属していた部署の同僚には、もし家族が電話してきたら、席を外しているか、診療中だと告げるように頼んでいた。本当に彼女の苦心は並大抵ではなかった。
こうした事柄を通じ、なぜSARS患者が発生して以来、100人以上にも及ぶ医療関係者が倒れていったのかを私は理解した。答えはそこにあった。医学のために身を捧げ、患者を救うためには、その責任を転嫁するわけにはいかないのだと。
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