日本語版   中国語版       200311月10日
 

 米国時間10月23日23時17分(北京時間24日11時17分)、宋美齢氏は米ニューヨーク・マンハッタン島の自宅で死去した。享年106歳。この、中国の近代史におけるひとりの伝記的な女性は政治の紐帯を結ぶがごとく、蒋介石との婚姻を通し、蒋介石と孔ファミリー、また宋ファミリーといった財閥とをつなぎ「四大家族」の政治経済同盟関係を形成。22年の長きにわたり中国を統治した。同時に宋美齢は文化の橋としての役割も果たし、濃厚な米国文化を背景に蒋介石政権と米国政権とを固くつないだ。24日当日、全国政治協商会議の賈慶林主席は遺族に弔電を送った。中国近現代史に影響を及ぼした宋美齢氏が亡くなられたことに驚くとともに、中国人民政治協商会議全国委員会をつつしんで代表し、みなさまに対しおくやみ申し上げ、深く哀悼の意を示す――。

 

 1897年3月23日、宋美齢は上海の富裕な家庭に生まれた。彼女は小さいときから良好な教育を受け、父母の寵愛のなかで、存分にわがままな育てられ方を受けた。この性格が彼女の運命を確定づけた。
 1910年(1907年ともいう)、宋美齢は米国留学する次姉の宋慶齢にしたがい、米国へ渡った。のちマサチューセッツ州のウェルズリー女学院に学んだ。このとき、宋美齢は思想上、またその言動のすべてにおいて西洋化し、同級生は彼女をしてほぼ生粋の米国人になったとみなした。彼女自身もよく、「わたしのなかで唯一東方に染まったものがあるとすれば、それは顔つきである」と言っていた。
 1917年8月、上海に戻った宋美齢は流麗な中国語をものにし、祖国の古典文学に精通しようと決め、ひとりの私塾の教師を請うた。これがのちになって、文章をしたためる際に、また演説をする際の原稿をまとめるのに、きわめて大きな効果を及ぼした。
 1927年12月1日、上海において、宋美齢と蒋介石との婚礼が挙行された。大華飯店(マジェスティック・ホテル)のダンスホールには1300人余りもの客人が詰め掛けた。司会役となったもと北京大学学長の蔡元培が壇上で孫文の遺影の前に立ったとき、その場の雰囲気はクライマックスに達した。「ニューヨーク・タイムズ」は翌日付の紙面で、一面、しかもトップ記事として、この婚礼の盛況さを伝えた。「上海時報」も以下のように報じた。これは中国人の輝かしい結婚式典である。これは南京軍における過去最強最有力な領導である蒋介石と新婦の兄宋子文のファミリーを結び付け、さらに中国国民党の創始者孫文のファミリーとを渾然一体とさせるものとなった。

宋美齢と蒋介石の婚礼写真

一堂にそろった宋ファミリー
(前列宋子安、中列左から宋靄齢、
宋子文、宋慶齢。後列宋子良、
宋嘉樹、倪桂珍、宋美齢)

 

幼女のころの宋美齢

宋美齢の若いころ

宋美齢(UPI)

米国国会で演説する宋美齢

宋美齢と蒋介石、スティルウェル(Gen. Joseph W. Stilwell)将軍

トルーマン米大統領と


   名実ともに当時の中国のファーストレディーとなった宋美齢は蒋介石に従いながらも、異なる歴史の時期に一連の重要な役回りを長く演じることになった。1936年12月12日、張学良と楊虎城による西安事件が勃発後、国民党内は混乱に陥った。素地からして荒々しい何応欽は西安の街を撃滅することを主張したが、宋美齢は気色ばんでただした。「あんたって男は、ほんとうはあの人を謀殺したいのね、そうでしょう」。彼女は22日、命の危険を犯して西安に飛んだ。飛行機が着陸する寸前、ハンドバッグから拳銃を取り出し、側近に手渡しながら言った。「もし張学良軍がわたしを捕まえようとしたら、あなた、すぐこれでわたしを撃ってね」と。
 24日、交渉に臨んだ宋美齢は張学良らが求める内戦の停止にはっきりと賛意を示した。蒋介石は翌日解放された。本人はこのあたりの事実をことさら口外しなかったものの、蒋介石は聞き及んでいたようで、のちになって譜代の部下との会談の際、感慨深げに「あいつのおかげで命拾いしたよ」ともらした。

 

  蒋介石は一貫して空軍を重視した。1936年、宋美齢は国民党航空委員会秘書長に就任した。彼女は空軍建立のため、多大な精力を注いだ。併せて、外国から軍用機を調達し、外国人顧問の招聘(へい)などの問題の上で、いかんなく自らの外交手腕を発揮した。このほか、航空理論について、また軍用機設計の学習にと多くの時間を割いた。彼女は外国の企業人らとの交渉で、価格2000万米ドルの米国製機材を買い付けた。これにより、「商人」から中国空軍総司令に変じた。女性の就任は過去なかったことである。
 1937年春、米国のジェンノート将軍は宋美齢からの手紙を受け取った。中国空軍の顧問に就く気はないかと問うものだった。ジェンノートはこれにこたえ、以後世界に知れ渡る「飛虎隊(チーム・フライングタイガー)」を打ち建てた。ジェンノートの支援のもと、彼女はごくごく短期間のうちに空軍内部の指導権を掌握した。翌1938年春、彼女は健康上の理由により秘書長の職を辞し、兄の宋子文がそれを継いだ。しかし、彼女は終始空軍の人事と調達、また甚だしくは訓練に至るまでの大権を手放さなかった。これにより「中国空軍の母」と呼ばれた。


 

 蒋介石の抗日、反共と台湾保持はいずれも米国の支援を必要としたが、これは宋美齢の存在そのものが米国の支持を取り付ける最大の眼目となっていた。彼女が外交上突出したパフォーマンスを演じたのは1943年。「米国征服」のための訪米と、中米英3ヵ国によるカイロ会談であった。
 まず同年2月18日、宋美齢の一生涯にとっての大事となったのが、米国下院で重要演説を行ったこと。下院は亡命中のウィルヘルミナ・オランダ女王に続く二人目の女性演説としてのものだった。彼女は黒地に金のサテンのチャイナドレスをまとい、胸には宝石をちりばめた中国空軍のバッジを着けた。演説はときに拍手により何度か中断した。しかし、この段で最も注目を浴びたのは、ハリウッドの屋外会場で発表した演説だった。イングリッド・バーグマンやキャサリン・ヘップバーン、ハンフリー・ボガード、シャーリーテンプルらのハリウッド・スターが駆け付け、にぎやかに抗日戦争の義捐(えん)金拠出を申し出た。
 さらに11月、夫妻は連れ立ってエジプトのカイロに向かい、宋美齢は蒋介石の通訳として終始会見相手との仲立ちに当たったことから、三巨頭ならぬ四巨頭とも言われた。この会談後、中国は国際社会における声望を一定の高さにまで高めることとなったが、別の観点からして見れば、ひときわ中米関係の密接化につなげる役割を果たした。

エリノア・ルーズベルト夫人(左)
と宋美齢(UPI)

104歳の誕生日に姿を
見せた宋美齢(台湾東森新聞)


抗日戦争時、最前線の兵士
のために衣服を縫う

抗日戦争中、顔を合わす
ことになった三姉妹

米国移住後はよく絵画
の作画に親しむ


 1950年4月、宋美齢は台湾において、自らが中核となる「中華婦女反共抗ロ聯合会」を設立した。これを皮切りに、彼女と密接なかかわりを持つ「部門」がまた増えた。これら組織は周囲を取り巻き、彼女の権力をますます強大なものにした。それと同時に、持ち前の「外交」を忘れることなく、それは主として中華人民共和国の国連復帰を阻止することに費やされた。70年代初め、台湾は国連のポストをおびやかされるようになる。米国は台湾当局に「二つの中国」の配慮を受け入れるよう勧告した。この建議が台湾の最高会議に届いたとき、一貫して親米派と見られていた彼女は最初に立ちあがり、「玉となって砕けても、瓦となってまっとうせず」とおごそかに、かつきっぱりと表明した。
 宋美齢は「二つの中国」「一中一台」に反対したが、その動機がどうであれ、祖国統一の大業にとっては利するものがあった。

 

 1975年4月5日、蒋介石は台北で病死した。同月28日、すなわち蒋の死後23日目、国民党全体中央委員会は臨時会議を開催し、党規を改めた。党最高の領導は主席とし、総裁は蒋のために永遠のものとして保留し、他の者は踏襲してはならないと。会議は蒋経国を主席兼中央委員会常務委員会主席に推挙。宋美齢の地位はもろくも崩れ、引退を強いられた彼女は、ついに米国への移住を余儀なくされた。
 同年9月、宋美齢は米国到着後、ニューヨークのロングアイランドに居を構えた。この家は50年代、長姉の夫で義兄となる孔祥熙とともに買い求めていたものだ。米国に滞在して、彼女の生活は十分楽しいものだった。ときにはマンハッタンまで車で出掛け、画廊や美術館を訪れた。ときには自分で筆をとって絵や書を書いた。作品は売りに出されることなく、また友人らに贈られることもなかった。書き上がったものから、いずれも側近の手に渡され、保管された。しかし、かたときも台湾の情勢から目を離すことはせず、台湾の関係者と密接な関係を保持しつづけた。
 81年、次姉の宋慶齢が危篤となり、大陸は帰国しての見舞いを誘ったものの、彼女に拒絶された。慶齢は臨終前に妹との再会を果たすことがなかった。


 米国に移って11年後の1986年、宋美齢は蒋介石生誕100年を記念した活動に参加するとの名目で台湾に帰った。以後、台湾での生活は5年にわたった。
 同年10月31日、宋美齢は亡夫を記念する一文を発表した。が、その題は「わたしは再び立ち上がる」。ある者はこれを、巻き返しを謀ろうとする彼女の再起宣言ととった。
 1988年1月、蒋経国が病死し、蒋家のその後の動向が注目の的となった。「夫人派」は兪国華を国民党主席に推そうとしたものの、兪はとても李登輝のライバルとはならない。かといって、宋美齢自身は年齢も高く、もし出馬したにしても反発は大きく、容易に党内の一致した支持を受けられるとは見られなかった。そのため、自らは引き下がって李煥を党代理主席とする案を示し支持したが、拒まれた。その結果、李登輝が党のトップに就くことになった。
 1991年9月21日、94歳の高齢になっていた宋美齢は休養として再度米国へ向け旅立った。

 

 米国に戻った宋美齢はもはや政治を問うこともなく、側近との応酬も減った。キリスト教への信仰が彼女の生活の重心に据えられ、精神的支柱となった。聖書を読み、毎日の祈りは欠かすことがなかった。よく住居付近の教会に出掛けては礼拝した。蒋家、宋家の友人らのほとんどはみな米国に移り住んでおり、主だった祝日やあるいは彼女の誕生日などを迎えるたびに、一堂に集まった。彼女と一緒にいて過ごしてあげることが、彼女にとっての大きな慰めだった。
 1995年7月26日、100歳近い宋美齢は米国国会の招きに応じ、ニューヨークからワシントンに飛んだ。第二次世界大戦終結50周年として、特に彼女のためのパーティーを挙行し、その出席をいざなった。同日午後5時、歩行をまわりに支えられながらも彼女は演説し、満場の熱烈な拍手を浴びた。
 しかし、つまるところ、昔日の栄華、昔日の気炎、そして昔日の権勢のいずれとも煙や雲のごとく消え去った。遺憾なことは、彼女は歴史を語ることもなく、また筆記による回顧録の執筆も拒んだ。それはまるで、すべての恩怨を永遠に自らの記憶のなかに封じ込めるかのようだった。

 
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